『『諸君!』『正論』の研究』
アマゾンへ注文

─────────────────────────────────
〔副題〕 保守言論はどう変容してきたか
〔著者〕 上丸洋一
〔シリーズ〕 -
〔出版社〕 岩波書店
〔発行年〕 2011-06-28
〔ページ〕 411頁
〔ISBN等〕 9784-0002-34894
〔価格〕 定価(本体2800円+税)
〔箱・帯〕 箱:なし 帯:あり
〔体裁〕 四六判:19.4×13.6cm
〔図表〕 あり
〔注記〕 -
〔分類〕 図書
〔備考〕 人名索引 pp.8-1、装幀=間村俊一

 

─────────────────────────────────
目次
─────────────────────────────────
序章 生きている紀元節──なぜ、『諸君!』『正論』の研究なのか 1

 

第一章 『諸君!』創刊への道 21
 第一節 池島信平「保守派でゆきましょう」 21
 第二節 戦後保守と雑誌『自由』 40

 

第二章 カリスマの残影──鹿内信隆と『正論』創刊 63

 

第三章 日本核武装論──清水幾太郎と西村眞悟の間 85

 

第四章 靖国神社と東京裁判 111

 第一節 他者のまったき不在 111
 第二節 A級戦犯合祀に異議あり 130
 第三節 保守から右派へ 151

 

第五章 A級戦犯合祀不快発言と天皇の戦争責任 177
 第一節 富田メモの衝撃 177
 第二節 東条英機と天皇の間 199
 第三節 「君臨」した者として 230

 

第六章 永遠の敵を求めて 251
 第一節 「悪の帝国」ソ連の脅威 251
 第二節 北朝鮮を打倒せよ! 276

 

第七章 岸信介と安倍晋三を結ぶもの 301

 

第八章 朝日新聞批判の構造 325
 第一節 朝日は日本のプラウダか 325
 第二節 〈排他〉は〈寛容〉を排他する 347

 

第九章 空想と歴史認識──田母神俊雄と林健太郎の距離 367

 

終章 蓑田胸喜と『諸君!』『正論』の間 397

 

あとがき 407
人名索引 

 

─────────────────────────────────
関連部分
─────────────────────────────────
p.101
《九九年六月号に掲載された中川八洋との対談「何故、決然と『下令』されなかった『北船』打ち払い令」のなかで、西村はこう語る。

 

「ひどく素朴なのですが、同じ言葉を喋っている自分の知り合いの女が、他国人に強姦されるということを許してはならない、こういった感情が国防の根底にあるのではないか、と思うのです。逆に言えば、自分の国が敗れるということは、自分の知り合いの親しい女が強姦されることなのです。強姦を見て見ぬふりをして容認しなければならないと。その女が強姦されて、征服者の子供を産むことを容認しなければならないということですね」

 

西村は、「若者向けの大衆娯楽雑誌」だから「サービス精神」(八木)を発揮したわけではなかった。

清水幾太郎も論文「核の選択」のなかで同様の指摘をしていた。「日本が侵略されるというのは(略)男たちが虐殺され、妻や娘が暴行されるということである」と清水が書き、山口瞳が批判したことはすでに述べた。

 

しかし、清水の文章と西村の発言は、その中身において大きなちがいがあった。》

 

〔引用者注〕引用文中、《山口瞳が批判したことはすでに述べた》とあるのは、pp.91-2の以下のくだり。

《「政治にはかかわりたくない、かかわってはいけないと思っていた」という作家の山口瞳も週刊新潮のコラム「男性自身」で、「卑怯者の弁」と題して四週にわたって清水論文を批判した(『山口瞳大全』第十巻、新潮社、一九九三年、所収)。清水の「核の選択」から「日本が侵略されるというのは、ただ国土が敵軍によって占領されることではない。国民が気高く死んでいくことでもない。敵兵によって掠奪が行われ、男たちが虐殺され、妻や娘が暴行されるということである」という一節を引き、山口はこう述べる。

「ああ、聞いた聞いた、これも聞いた。これも、あの時の〔戦中の〕声とそっくり同じである。社会学の大先生に向って、こういうことを言うのはどうかと思われるが、私の乏しい知識貧しい頭脳からすると、こういうのがデマゴギーということになる」

「私は小心者であり臆病者であり卑怯者である。(略)卑怯者としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである」》(pp.91-92)

 


p.257-8
《朝日新聞亜は八〇年十一月二十八日から十二月十三日まで、朝刊一面にシリーズ「ソ連は『脅威』か」全十四回を掲載した。(中略)

 

極東ソ連で取材にあたった朝日記者は、ソ連が日本に侵攻するという想定の本をみせて意見を聞いた(連載第六回「変わらぬ親日感」。ナホトカの市長は副市長と顔を見合わせて、大笑いして言った。

 

「ソ連が本当に戦争の準備を進めているというのなら、われわれは何のために日本の協力を要請して貿易拡大を目指したボストーク港を建設しているのか。年間三千世帯の新しい住宅をつくり、どんどん人口がふえているのはなぜですか」

 

朝日新聞は、冷静さを欠いたソ連脅威論を否定した。
(中略)
猪木正道の考えはこうだった。

 

「軍事力を膨張政策に使う点で、ソ連の指導者は一見ヒトラーに類似しているけれども、米国との直接対決を徹底的に避ける点で、ブレジネフもアンドロポフも、ヒトラーとは比較にならないほど冷静で計算高い。日本を含む西側諸国が防衛力の用心深い整備を怠らないかぎり、ソ連の方から絶望的な自爆戦争をしかけてくる公算は、まず存しない」(「第三次世界大戦は起こるか」正論八三年三月号)

 

猪木の論文「防衛論議の虚実」が発表されたのは『中央公論』八一年一月号だった。

 

猪木は、こう主張した。

 

──ソ連の脅威があるかないかの議論は「不毛であるばかりか、有害無益だ」。ソ連の軍事力が日本にとって脅威であることは「論ずるまでもない」が、「ソ連が極東方面の軍事力を増強している<から>、日本も防衛力を整備・強化しなければならない、という考え方には私は断固反対する」。穀物生産の不調、ポーランドの民主化要求など「困難な問題をかかえて苦悩するソ連を日本の側から“脅威”するのは愚劣きわまりない」。日本の防衛力は「国力、国情に応じ、自衛のため必要な限度において効率的」に整備すればよい。

 

この主張を当時、筑波大助教授だった政治学者の中川八洋が右派の言論紙「月曜評論」(八一年七月二十日、八月三日、同二十四日付)で批判した。そのなかに次の表現があった。

 

「もしかしたら彼が<ソ連への忠誠心>をもっていることの矛盾から生じたものではないか」

 

「このような猪木氏の口ぶりは、彼がソ連政府の代理人になったかの如くである」

 

猪木は怒った。名誉棄損にあたるとして、月曜評論の編集長と中川の二人に損害賠償を求めて東京地裁に訴えた。結果は和解となった。猪木と中川は「言論人としての責務を再確認し、今後双方とも本件に類する論争は言論界においてその主張を述べるものとする」「『原告がソ連の代理人ではない』こと、及び同人がソ連への『忠誠心を持っていない』ことを相互に確認する」──などで合意した(週刊文春八三年一月二十日号)。

 

この間、中川は『文藝春秋』八一年十月号に「あなたは北海道を放棄するか」と題する論文を発表する。
──中東の石油確保などを目的としてソ連軍がペルシャ湾岸の油田地帯に侵攻すると同時に、極東ソ連軍が南侵を開始し、北朝鮮とともに韓国を攻撃、さらに日本に侵攻する──米国が想定するこのシナリオの発生確率は極めて高い」「現在の国際情勢下において世界的な戦争が生じた場合、ソ連が北海道侵攻をしないなどということの方がむしろ空想か夢想に近」い。侵攻はここ数年以内にあるとみてよい。

 

中川はその後、八二年に『ソ連は日本を核攻撃する』(日本工業新聞社)を、九〇年には『大侵略 2010年、ソ連はユーラシアを制覇する』(ネスコ)を出版した。

 

言うまでもなく、ソ連の「核攻撃」も、「大侵略」も現実にはなかった。》(文中、<>内は原文傍点)

 


pp.272-3
《八二年にブレジネフ、八四年アンドロポフ、八五年チェルネンコと、ソ連の指導者が相次いで亡くなった。そして登場したのがゴルバチョフだった。八五年三月に共産党書記長に就任したゴルバチョフは、翌年から「ペレストロイカ(建て直し)」と「グラスノスチ(情報公開)」を唱導して国内体制の改革を推し進めた。

 

中断していた中距離核戦力(INF)制限交渉が宇宙兵器などを含む包括軍縮交渉としてジュネーブで再開された。その後、INFの交渉が分離され、八七年十一月に米ソがINFの全廃に合意した。
八八年五月からはアフガニスタンからのソ連軍の撤退が始まった。

 

冷戦の終結に向けて、世界は地響きをあげて動き出した。

 

八九年十一月、ベルリンの壁の撤去が始まった。共産党一党支配体制を打破する民衆革命が東欧で次々におきた。十二月、米大統領ブッシュ(父)とゴルバチョフがマルタ島で会談、東西冷戦の終結を確認した。

 

九〇年三月にゴルバチョフがソ連大統領に就任、十月に東西ドイツが統一した。そして、九一年、ソ連共産党が解散し、ソ連邦が解体した。

 

この間も『諸君!』『正論』誌上では、次のように、ゴルバチョフ攻撃やソ連批判が続いた。
(中略)

 

中川八洋「ゴルバチョフに当事者能力はない」
(諸君!九一年五月号)》

 

 

pp.274
《ソ連(ロシア)に関連する両誌の特集と記事を創刊から数えてみた(グラフ参照)。ただし、何とそれを数えるかによって数字は動くため、個別の数字より全体的な傾向をみていただきたい(なお『諸君!』は六九年後圧、『正論』は七三年十月の創刊。〇九年は両誌とも六月号(『諸君!』最終号)までの数を算入した)。

 

一見して明らかなように、ゴルバチョフが登場した八〇年代後半にピークとなり、九〇年代半ば以降、激減した。

 

「ソ連」が共産主義を脱ぎ捨てて「ロシア」となるや、この国は『諸君!』『正論』の「敵」あるいは「攻撃対象」ではなくなった。ソ連の脅威を鼓吹して軍事力増強を叫ぶ論法はスクラップとなり、新たな「敵」が必要になった。次の「敵」は北朝鮮、中国であり、かつての反共の盟友、韓国だった。

 

『ソ連は日本を核攻撃する』などを著した中川八洋は、その後、『中国の核戦争計画』(徳間書店、一九九九年)、『歴史を偽造する韓国』(徳間書店、二〇〇二年)、『日本核武装の選択』(徳間書店、二〇〇四年)などを著し、『諸君!』『正論』にもしばしば執筆してきた。激しい反共・反ソ論を書いてきた勝田吉太郎は九三年に編著『日本は侵略国家ではない』(善本社)を出し、日中戦争の引き金となった盧溝橋事件の発生は「中共軍の工作によるものであったらしいという有力な証言がある」と書いた。

 

名うての反ソ論者たちは、それぞれに、次の「敵」を求めて方向転換をはかった。》

 


(以上、引用文の行あけは引用者による)

 

─────────────────────────────────
著者略歴
─────────────────────────────────
上丸洋一(じょうまる・よういち)

朝日新聞編集委員.1955年2月,岐阜県高山市生まれ。78年,早稲田大学政経学部を卒業し,朝日新聞社に入社.東京本社人事部員,千葉支局員,学芸部員,学芸部次長,オピニオン編集長,『論座』編集長などを経て,2007年から現職。

 

著書

『本はニュースだ!』径書房,1993年

共著書

『房総のうた』(朝日新聞千葉支局,未来社,1983年),『戦後五〇年 メディアの検証』(朝日新聞取材班,三一書房,1996年),『戦争責任と追悼』 (朝日新聞取材班,朝日選書,2006年),『「過去の克服」と愛国心』(朝日新聞取材班,朝日選書,2007年),『新聞と戦争』(朝日新聞「新聞と戦争」取材班,朝日新聞出版,2008年)新聞労連ジャーナリスト大賞,JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞,石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞をそれぞれ受賞,『新聞と「昭和」』(朝日新聞「検証・昭和報道」取材班,朝日新聞出版,2010年),『報道現場』(朝日新聞社ジャーナリスト学校ほか編,慶應義塾大学出版会,2010年)

 

─────────────────────────────────
所蔵
─────────────────────────────────
国立国会図書館 あり(請求記号:A37-J16)
http://iss.ndl.go.jp/

都立中央図書館 あり(請求記号:)

https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja
都立多摩図書館 あり(請求記号:)
https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja

 

─────────────────────────────────
情報元
─────────────────────────────────

─────────────────────────────────
他文献
─────────────────────────────────

─────────────────────────────────
備考
─────────────────────────────────

─────────────────────────────────
内容
─────────────────────────────────
雑誌『諸君!』『正論』は、時代の中で何をどう主張し、日本の言論空間をどのように塗り変えたか。主要な論争点を中心に、両誌の論調の変遷を実証的に分析。これまで見すごされてきた戦後の思想状況の一断面を描き出す。

 

─────────────────────────────────
更新履歴
─────────────────────────────────
2015-02-15


一つ前のページに戻る〕〔サイトのトップに戻る〕〔このページのトップに戻る