『第二次世界大戦と日独伊三国同盟』 
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〔副題〕 海軍とコミンテルンの視点から
〔著者〕 平間洋一
〔シリーズ〕 -
〔出版社〕 錦正社
〔発行年〕 2007-05-01
〔ページ〕 368頁
〔ISBN等〕 978-4-7646-0320-2
〔価格〕 本体5,800円(税別)
〔箱・帯〕 箱:なし 帯:不明
〔体裁〕  A5判:21.5×15.7cm
〔図表〕 あり
〔注記〕 索引pp368-361
〔分類〕 図書
〔備考〕 -

 

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目次
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序 論 3 
第一章 三国同盟の締結と日本海軍 12
第二章 独ソ開戦と日独ソ関係 48
第三章 独ソ開戦と日米関係 68
第四章 日本海軍のインド洋作戦 91
第五章 ドイツ海軍のインド洋作戦 133
第六章 日独海軍の海上連絡便 154
第七章 日独連合作戦の問題点 171
第八章 ドイツの敗戦と日本海軍 192
第九章 日独技術・経済関係 213
第一〇章 日本海軍と日独ソ関関係 243
第一一章 コミンテルンから見た第二次世界大戦 285
第一二章 戦争責任と東京裁判史観 311
おわりに 329
参考文献・資料目録  
索 引 368

 

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関連部分
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一、「第一一章 コミンテルンから見た第二次世界大戦」註

 

《(4)中川八洋『大東亜戦争と開戦責任 近衛文麿と山本五十六』(弓立社、二〇〇五年)、勝田吉太郎「大東亜戦争とコミンテルン」(現代アジア研究会編『世紀末から見た大東亜戦争』プレジデント社、一九九一年)、庄司潤一郎「近衛文麿像の再検討─対外認識を中心に」(近代外交史研究会編『変動期の日本外交と軍事』原書房、一九八七年)九七-一一五頁。》p306

 

なお、(4)の文章は以下のとおり。
《この近衛上奏文について、近衛の諮問機関である朝食会のメンバーがゾルゲ事件で逮捕されたことや、支配階級に属する公家の近衛が「共産主義の妖怪に怯え」、共産主義の脅威を過大視しているとの見解、マルクス主義者であった近衛がマルクス主義者ではないとの「偽イメージ」を作る近衛独特の自己弁護の文書とか、天皇に事態の重大性を訴えるための誇張など多様な解釈がある。(4)》p287


二、「第一一章 コミンテルンから見た第二次世界大戦」註

《(8)前掲『大東亜戦争と開戦責任』七四頁、企画院事件の記録「警視総監報告書抜粋(特高一秘第一三八号)」(前掲『大東亜戦争とスターリンの陰謀』)二八四-三〇六頁。》p307


引用者注:後段の《前掲『大東亜戦争とスターリンの陰謀』》とは、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの陰謀』(自由社、二〇〇四年)のこと。なお、該書は『戦争と共産主義 昭和政治秘録』(民主制度普及会、一九五〇年)の復刻版であり、「参考文献・資料目録」欄の記載《三田村武夫『戦争と共産主義(復刻版は『大東亜戦争とスターリンの陰謀 戦争と共産主義』)』(自由社、二〇〇四年)。》は不正確。「三田村武夫『戦争と共産主義 昭和政治秘録』(民主制度普及会、一九五〇年)、のち『大東亜戦争とスターリンの陰謀 戦争と共産主義』(自由社、二〇〇四年)として復刻。」等とすべきであろう。

 

なお、(8)の文章は以下のとおり。
《ところで上奏文の「何者」かの「眼に見えない力」とは何であろうか。「何者」とは近衛の政策集団の昭和会や朝食会のメンバーであり、「眼に見えない力』とは共産主義者(あるいはシンパ)を通じたコミンテルンの影響力であった。また、「国体の衣をまとった共産主義者」とは、近衛の国家総動員態勢や大東亜共栄圏の確立に協力した政策集団の昭和会や朝食会のメンバーたちで、これらのメンバーが革新的国策を案出し理念の裏付けをし、大政翼賛会という一党独裁の近衛新体制や国家総力戦体制の確立に大きな働きをした。この会には企画院事件や横浜事件などで共産党員として逮捕された革新官僚の稲葉秀三(のちサンケイ新聞社長)、勝間田清一(のち社会党委員長)、和田耕作(のち民社党代議士会長)などがいた。また、朝食会にはゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実、西園寺公一、犬養健などがいた。(8)》p288


三、「参考文献・資料目録」>「III. 外交・国際関係の研究書と論文」>「4.終戦と東京裁判関係」
《中川八洋『大東亜戦争と開戦責任 近衛文麿と山本五十六』(弓立社、二〇〇五年)》p352

 

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著者略歴
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著者略歴及び著書

 

平間 洋一(ひらま よういち)
1933年に横須賀で生まれる。1952年:横須賀高等学校卒、1957年:防衛大学校電気工業科卒、1962年:大阪外国語大学仏文科研修(2年)、1997年:法学博士(慶應義塾大学)、1957~1988年:海上自衛官(この間に護衛艦ちとせ艦長、第31護衛隊司令、海上幕僚監部調査部、練習艦隊主席幕僚、防衛研究所戦史部などを経て1988年に海将補で退官)、1988~1999年防衛大学校教授、1999~2003年筑波・常盤大学非常勤講師。

 

主要著書
『第一次世界大戦と日本海軍』(慶應義塾大学出版会、1998年)、『日英同盟』(PHP研究所、2000年)、『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版、2005年)、共著Reluctant Allies: German-Japanese Navel Relations in World War II (Annapolis: U.S.Naval Institute Press, 2002)、編著『日英交流史1600~2000 軍事』(東京大学出版会、2001年)、編著『北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本』(明石書房、2003年)、編著The History of Anglo-Japanese Relations, 1600-2000 The Military Dimension(Palagrave-Macmillian, 2003).

 

学会活動
軍事史学会理事、太平洋学会理事、戦略研究学会理事、岡崎研究所理事、横須賀市史(軍事編)編集委員長、呉海事歴史科学館資料収集委員・部門委員、国際政治学会会員。


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所蔵
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国立国会図書館 あり(請求記号:GA82-H57)
http://iss.ndl.go.jp/
都立中央図書館 あり(請求記号:/ 209.7/ 5100/ 2007 )
https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja
都立多摩図書館 なし

 

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情報元
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他文献
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備考
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内容
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内容紹介

 

 日独伊三国同盟が締結されてから敗戦に至るまでの歴史を海軍
とコミンテルンの視点から多くの資料を博捜し分析した研究書。
 軍部をスケープゴートとしてできあがった昭和史や、東京裁判史観に
一石を投じる書である。
 第二次世界大戦中に日独海軍が共に戦ったインド洋作戦を主軸とし、日独伊三
国同盟が締結されてから敗戦に至るまでの歴史を明らかにした画期的な研究。
 わが国における日独関係史の研究は、日独防共協定や日独伊三国同盟の締結な
どに関しての優れた研究は多いが、外交史などに限られ日独両国の戦争指導や同
盟作戦の問題点などに関する研究は殆どない。この空白を埋めるのが本書であ
る。また、日独間だけでなく、日独両国の動きに対する米英ソ中などの
動向--日米関係から日中、日ソ、日英関係など多国間関係を複眼的に分析した。
 さらに、第二次世界大戦への道程と、敗戦後の日本の現状をコミンテルンの視
点で分析した。コミンテルンを加味した歴史が新しい視点を提供するであろう。
 また、戦前の日本の対外政策は陸軍主導ではあったが、常に陸・海・外の三省
が調整して国策を決めていた。時には松岡洋右や白鳥敏夫などに代表される革新
官僚が大きな影響を与えた。これら革新官僚の戦後の外務省史観の形成に対する
責任の追求は隠蔽され改竄されている。タブー視されてきた外務省の戦争責任や
東京裁判史観への責任を明らかにした。


内容(「BOOK」データベースより)

わが国における日独関係史の研究は、日独防共協定や日独伊三国同盟の締結などに関しての優れた研究は多いが、外交史などに限られ日独両国の戦争指導や同盟作戦の問題点などに関する研究は殆どない。この空白を埋めるのが本書である。また、日独間だけでなく、日独両国の動きに対する米英ソ中などの動向―日米関係から日中、日ソ、日英関係など多国間関係を複眼的に分析した。さらに、第二次世界大戦への道程と、敗戦後の日本の現状をコミンテルンの視点で分析。コミンテルンを加味した歴史が新しい視点を提供するであろう。また、戦前の日本の対外政策は陸軍主導ではあったが、常に陸・海・外の三省が調整して国策を決めていた。時には松岡洋右や白鳥敏夫などに代表される革新官僚が大きな影響を与えた。これら革新官僚による戦後の外務省史観形成に対する責任の追求は隠蔽・改竄されている。タブー視されてきた外務省の戦争責任や東京裁判史観への責任をも明らかにした。

 

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その他
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引用者は、筆者の平間氏が"転向した"事実について否定的である。なぜならば、「おわりに」で、自身の経歴と心変わりを率直に語っているように見せながら、実は何も変わっていないという「事実」のみが語られているからである。

 

その評価は、以下の引用等を読んでそれぞれが判断していただきたい。

 

《本書を理解して頂くためにコミンテルン史観や海軍からの視点を生み育てた筆者の体験、すなわち心変わりの変遷を告白しておきたい。筆者が進駐軍兵士と厚化粧の女が溢れる基地の町の横須賀に育ったためか、横須賀高校時代には社会科学研究部長、三浦半島地区民主青年同盟(民青同)高校の部のリーダーとして、「ゴーホーム・ヤンキー」のポスターを電柱に貼り、理解もできないのに「共産党宣言」や「マルクス経済学」を読み(読んだ振りをし)、九州大学の向坂逸郎教授の難解な言説に酔い、三池炭鉱の闘争に拍手を送っていた。また、ソ連大使館から送られてくる『今日のソ連邦』などの宣伝雑誌を見て共産主義に憧れ、選挙では宣伝車に乗って「働く者の政権を!」「日中・日ソ国交回復!」「単独講和反対!」などとソ連に躍らされていた。それが筆者にコミンテルン史観を抜きに日本の近代史を論ずべきでないとの史観を生んだのである。》(p330)

 

《さて、マルクス・ボーイの筆者がなぜ、防衛大学校に入学したのであろうか。それは将来は外交官として国を代表して働きたいので、東大文一を受けたいと進学指導の教師に相談したら、「それなら駐在武官の方が外国に行ける確率が高いよ。保安大学校にしなさい。東大に行って外交官試験を受けても外務省は縁故採用が多いから」と言われアットいう間に針路を変えてしまった。その程度のマルクス主義者(?)だったのである。
しかし、筆者は入学早々に「保安大学校も大学なのだから全学連に加盟させろ」と学校当局と団交したり、「大学にしては訓練が多すぎる。海上自衛官に銃はいらない」などと発言し、貸与される小銃の手入れもせず、パレードもさぼる問題児であった。この問題児を指導したのが「米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」と敗戦革命を夢見て、戦後はソ連との提携を進言した参謀本部戦争指導班長の松谷誠陸将補であった。松谷は吉田茂が駐英大使の時の武官で、吉田の勧誘を受けて自衛隊に入隊し保安大学校の幹事になった。》(p331)

 

《この吉田の自衛隊に対する思い入れ、国家の骨髄でもある国防を無視し米軍に依存してしまった後悔から、吉田は防衛大学校を国軍の骨格であると重視し、筆者の在校中に四回も来校し、訓辞し学生と会食し学生代表と懇談するなど強い関心を持っていた。その吉田の思いを筆者は吉田から直接聞いた。卒業間近の一九五七年二月に吉田は「どんな学生ができたか、学生と話をしたいので大磯によこしてくれ」と槇智雄校長に依頼し、校長に選ばれた三人の一人が私であった。吉田総理訪問の細部については『人間吉田茂』に譲るが、筆者を三一年間も海上自衛隊に縛り付けた吉田の言葉が「君たちは決して国民から歓迎されず日陰の道を歩むかもしれない。しかし、君たちが日陰者であるほうが戦争も災害もなく国民は幸せなのだ」。「苦しいだろうが頑張って欲しい」という言葉であり、吉田から贈られた「治において乱を忘れるな」の書であった。そして、この吉田の言葉が筆者を三一年間も海上自衛隊に奉職させ、第二の人生で歴史家に転身した筆者に海軍からの視点を与えたのである。海上自衛隊では艦長や司令などの司令官のほかに、遠洋航海や各種の情報会議などで外務省とも関係し、また調査部時代にはソ連海軍主席分析官として各国の駐日武官との情報交換にもあたった。五五歳の定年後は防衛大学校の戦史教官に迎えられ学生の教育に当たるとともに、学者として博士号にも挑戦し、この防衛大学校勤務時代に歴史は学術的に書くべきことをも学んだ。》(p333-4)

 

《ところでドイツ語ができない筆者が、なぜこの本を書くに至ったのであろうか。それは現役時代に情報交換を行っていた駐日ドイツ海軍武官、ヨハシム・クルグ大佐(定年後に映画U-Boatの軍事アドバイザー)との友情であった。ドイツではU-Boatがアジアの海で日本海軍と共同作戦を行っていたことを知る人は少ない。インド洋に眠る戦友の功績と労苦を明らかにしたので一緒に書いてくれないかと、一七年前に来日し共同執筆を依頼された。海の仲間の友情から断ることもできずに参加し、下手な英語で原稿を送り、ドイツ語的英語と日本語的英語を『オレンジ計画』(新潮社)の著者であるエドワード・ミラー氏が資金を提供して修正し、出版助成金を提供し、二〇〇〇年にReluctant Alliance:German Japanese National Relation in the World War IIとして米国で発行された。この過程でドイツに送付した英語論文を日本語にし、ドイツから送られ[ママ]史料などを加えて完成したのが本書である。》(p333)

 

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更新履歴
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2014-04-17


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