皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚二十周年を寿ぐ

本日(二〇一三年六月九日)は、一九九三年(平成五年)の同月同日、皇太子浩宮徳仁親王殿下・皇太子妃殿下御成婚の儀が相成ってより二十周年の佳節となる。

 

国民の一員として、謹んで奉祝の祝詞を捧呈申し上げたい。

 

さて、皇室・皇族に対する敬称・敬語が報道から消失してひさしい。この動きは、けっしてキャスターやアナウンサーなどの不勉強が原因ではなく、もっと組織立ったものである。

 

昨今両殿下がご訪問あそばされたオランダ王室には「国王陛下」「女王陛下」「殿下」「妃殿下」と敬称使用ができるわけだから、不勉強が原因でないことは一目瞭然。外国王室には敬語を使い、我が国皇室には敬語・敬称を“自粛”する異様さ。そこにはイデオロギーにもとづくバイアスがかかっていることを理解することはたやすい。

 

中川八洋・筑波大学名誉教授はこうインテリジェンスする。
とくに、昭和天皇の崩御(一九八九年)と皇太子浩宮徳仁親王殿下の御成婚(一九九三年)を機に、朝日新聞が中心となって、陛下・殿下の敬称を抹殺し、また敬語使用を積極的に否定するという違法かつ野蛮な行為が公然となされるようになった。例えば、皇室典範第二十三条で定められている、殿下・妃殿下の敬称を皇太子殿下の御婚約発表(一九九三年一月〔一九日:引用者注〕と同時に朝日新聞は使用しないことにした。同年六月六日付けの同紙社説はわざわざ、「皇室報道では、まだ敬称や敬語が多すぎる」と述べ、公然と敬称・敬語廃止を宣言した。》(中川八洋『国民の憲法改正』ビジネス社

 

そればかりではない。この間、

 

・「開かれた皇室」キャンペーンのもと、皇室をタレントや庶民レベルに貶め、
・天皇の国事行為を徹底的して隠匿し、政治的に存在しないものとすべく“検閲”し、
・敬称・敬語を皇室報道から“自主規制”“自粛”し、マスコミ報道を通じて国民の皇室への尊崇の念を“抹殺”せんとする、

 

という“皇室廃絶”運動が、白昼堂々・公然とおこなわれてきた。

 

つまり、わが国には、皇室を貶め、皇室をいただくわが国の威信をおとしめる運動を周到かつ隠然とおこなう勢力が、厳然として日本に存在しつづけているのである。

 

たかだか敬語・敬称ではないか、といぶかる人がもしいるとすれば、それは“無知に基づく悪への加担”以外のなにものでもない。なぜならば、わが国日本が高貴な国家となるかいなかは、共同体を構成する国民が高貴な国民となるかどうかと直結している、つとめて国益にかかわる事柄だからだ。

 

敬称・敬語の発展とは文明の発展の高級性を示すものであり、最も人間を柔らかく高雅な人間にする働きがある。最も人間的な社会は、美しい敬語の満ちる社会である。しかし、餓死という最も残酷な人民大量処刑をなす金正日とその血のしたたる狂気を支持してきた朝日新聞は、このような文明の高級性の発露である敬語・敬称を認めることができないのである。
 だから同紙は、天皇の「崩御」を「死去」といい、「陛下」という敬称を消して天皇・皇后「ご夫妻」だと、庶民のレベルに貶める。しかし、庶民のレベルの天皇や皇室は存在しないから、「天皇ご夫妻」などという野蛮な言葉には、ルイ十六世をギロチンで殺害した“王殺しのドグマ”の信仰が秘められている。皇室への敬称・敬語の廃止は、その全存在の否定に発しているので、“皇室皆殺し”に必ず直結していく。少なくとも、皇室への敬称・敬語つぶし運動は、「平等」イデオロギーを根拠として「天皇制廃止運動」の一つとしてなされている。「開かれた皇室」論も、皇室を庶民のレベルに近づけるという理屈において、敬称・敬語の違法な不使用を正当化する詭弁となっている。》(前掲書)

 

 しかも、この運動が周到かつ異常なのは、民間人が抱く皇室に対する尊崇の念が、敬称・敬語不使用という“蛮行”を通じて失われていくからである。おじ様が「皇太子さま」といい、おば様方が「マ・サ・コ・サ・マ~」と叫べば叫ぶほど、皇室の尊厳が棄損し、その人の品性もまた下劣となるからである。これを“言行不一致の強要”という。

 

 この問題に対する“A級戦犯”は、朝日新聞を筆頭とするマスメディアであり、この動きを阻止しない政府・官僚にある。少なくとも「敬語・敬称を正しく使うな!」という主張は、正常な精神をもった人間から出てくる発想ではないことぐらい、説明を必要とすまい。

 

善に強きものは、悪に強くなければならない。このようなダブルバインドを決して許してはならない。皇室に対する不敬は、我が国に対する不敬でもある。当然、国民の尊厳もまた損なわれることはいうまでもない。

 

不敬を強要する勢力に対しては、敢然と「ノー」をつきつける道徳性を国民が持ち合わせることが肝要である。

 

(2013年6月9日脱稿)