『証言  村上正邦』
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〔副題〕 我、国に裏切られようとも
〔著者〕 魚住 昭
〔シリーズ〕 -
〔出版社〕 講談社
〔発行年〕 2007-10-10
〔ページ〕 252頁
〔ISBN等〕 978-4-06-214333-2
〔価格〕 定価:本体1,500円(税別)
〔箱・帯〕 箱:なし 帯:不明
〔体裁〕 四六判(しろくばん):19.5×13.5cm
〔図表〕 あり
〔注記〕 村上正邦関連年表:p.248~251 文献:p.252
〔分類〕 図書
〔備考〕 雑誌『世界』(岩波書店)、2006年11月号~2007年3月号、9~10月号に掲載された「聞き書 村上正邦 日本政治右派の底流」に加筆・修正し構成したもの。

 

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目次
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 はじめに 3
序章 崩れた検察の構図 11
第一章 筑豊育ちが抱いた大志 25
第二章 原点は玉置和郎と生長の家 50
第三章 父との和解、娘という天命 79
第四章 「宗教と政治」の最前線 107
第五章 教団に芽生えた不信感 138
第六章 国旗・国歌法案 166
第七章 密室協議と事件の深淵 198
 あとがきに代えて 239
 村上正邦関連年表 248
 主要参考文献 252

 

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関連部分
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謝罪決議反対運動
《自民党は決議推進派と決議慎重派に分かれたわけですが、決議慎重派の後押しをしていたのが、これまでにも何度かお話ししたように、椛島さんが事務局を切り盛りしていた「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」です。この両組織が中心になってまず平成六年(一九九四年)四月に戦後五十周年国民委員会(加瀬俊一会長)を立ち上げ、戦争謝罪決議の反対署名を開始しました。

そして、その年の十一月には国民委員会の呼びかけで各地の県議会などで戦没者追悼の決議が相次いで行われた。さらに同年十二月には終戦五十周年国会議員連盟(奥野誠亮会長)が自民党内につくられ、翌年三月には国民委員会が謝罪決議反対署名五百六万名分を集めて国会に請願し、緊急集会を相次いで開催した。

こうした状況のなかで当時の森喜朗幹事長や加藤紘一政調会長、野中広務自治相らが何とか与党間の合意を取りつけようと奔走していたわけです。

問題の焦点となったのは決議で、社会党が主張するようにあの戦争が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸国への植民地支配に言及するかどうかでした。

自民党の五役は私を除いて皆、決議をやるべしと主張していた。私は侵略戦争だと認めることなんて断じてできないと突っぱねていた。平成七年六月六日夜のことです。

それで、どういう内容にすれば、私たちも了承できるのかということで政調会長の加藤紘一さんらが文案づくりを繰り返していた。

加藤さんが「これならどうです」と言って文案をつくってきて、衆院の役員室で私たちに提示する。それを私が自分の参院幹事長室に持ち帰る。

参院幹事長室には、椛島さんとか筑波大教授の中川八洋さんとか民族派の幹部たちが五十人ほど集まって応接間を占領していた。国会議事堂の中央にある吹き抜けの向こう側が衆院です。

それで私が持ち帰った文案を椛島さんや中川さんに「どうだ」と見せる。彼らは「いや、これじゃ駄目だ」「この文言はああだ、こうだ」という。私が加藤さんらに「こんな文案じゃ受け入れられない」と伝える。その繰り返しで夜が更けていったわけです。

最終的に加藤さんらが提示してきた文案は「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし」という言葉を挿入することで戦争や植民地支配を歴史上の事実として一般化するという妥協案でした。

そのうえで「我国が過去に行った行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」とつづく。
(略)》pp.174-175


ペテン
《少なくとも私が加藤さんらから口頭で伝えられた文案はそうでした。これだと日本が「植民地支配や侵略的行為」をしたことを認めたことにはならない。その辺が極めて曖昧になりますから、参院の幹事長室を選挙している民族派の連中も納得できる。私はそう思いました。その場には党幹事長の森喜朗さんもいたんですが、彼が、

「村上さん、これならいいんじゃないの」

と言うから、私は、

「これならいいよ。これだったら、俺、皆を納得させるよ」

と答えたんです。森幹事長や加藤政調会長が「わかった、じゃあこれでいこう」と言って、シャンシャンシャンと話はそこでついたんです。夜中の十一時ごろだったかな。

そのとき私が決議を成文化したペーパーの中身を確認しておけばよかったんですが、ペーパーをもらったのは散会した後だった。私はそのペーパーを持って参院の幹事長室へ帰りました。それで、皆に、

「これでだいたいこっちの要望通りになったから、これで決めたよ」

と言って、ペーパーを見せた。そうしたら皆が、

「なんだ、これは! 村上先生、おかしいじゃないか」

と言い出した。ペーパーを改めてよく見ると、確かに違う。

「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」

つまり「こうした」という言葉がいつのまにか挿入されていたんです。「こうした」が入ると、日本が侵略戦争をしたことを認めてしまうことになる。私が加藤さんらから説明を受けた文案とは明らかに違う。

しかし、私はついさっき役員会で了承してしまっている。自民党役員会は「村上からOKが取れた」と言って、もう散会してしまった。今さら取り返しがつかない。

椛島さんや中川八洋さんらはものすごい勢いで怒った。私が彼らをペテンにかけたと言うんです。なかには私のネクタイをひっつかまえて怒鳴る者もいて、参院幹事長室は大騒ぎになった。とにかく目の血走った連中が「絶対阻止」を叫んで大勢押しかけて来ているわけですからね。

だから私はそこで決断しました。衆院が決議するのはもうやむを得ない。しかし、参院では私が責任をもって決議させない。だから了承してくれと皆に言いました。それでどうにか、その場は収まった。

そうしたら、自民党の国対委員長だった古賀誠さんが、今でも忘れない、私のところへ来て、

「先生は役者だなぁ。たいしたもんだよ。それしか収拾がつかなかったものねえ」

って言うんですよ。彼も私がとぼけてわざとやったと思ったわけですね。でも、本当は私が加藤さんら執行部のペテンにかけられたんです。党役員会では最終文案を私に見せず、ただ口頭で読み上げただけだった。そのときには確かに「こうした」は入っていなかった。成文化されたペーパーをくれたのは散会した後だったですからね。

平成七年八月七日付読売新聞朝刊より
「今回の決着は、与党三党の独自性の発揮よりも、連立維持を最優先としたもの。村山政権としては、政局の混乱に巻き込まれることなく、ハリファクス・サミット(先進国首脳会議)や参院選に臨めることになり、首相周辺はひとまずほっとしている。

今回の最終妥協案づくりの主舞台は、六日夕、都内のホテルで開かれた与党三党の政調・政審会長会議。焦点の「侵略的行為」と「植民地支配」の記述について、自民党の加藤政調会長が「わが国もそのような行為を行った」と明記することを主張。同時に「歴史観の相違をの乗り越えて」との一文を挿入することも求めた。

挿入文は、加藤政調会長が事前に決議慎重派の学者と相談のうえ、党内の慎重派議員の不満を抑える「奥の手」として用意していたもの。加藤はすでに今年二月ごろから、神社本庁や日本遺族会など決議に慎重な有力団体への根回しに奔走。五日朝も都内のホテルでこれらの団体幹部と会い、決議実現に向けて説得を続けていた。

しかし、六日の最終局面では、加藤氏らがまとめた文案に対し、国会内で待機していた神社本庁など有力支持団体の幹部が「わが国の行為と断定したものだ」と強い難色を示した。

これを説得したのは、決議慎重派の急先ぽう〔原文のママ〕だった村上正邦・参院自民党幹事長。村上氏も最後は、政権維持優先の判断に傾いたようだ」

マスコミも党内の人も最後は私が妥協して民族派を説得したと思ったようですが、実情は違うんです。でも、私は約束通り、参院では戦後五十年決議をさせませんでした。議院運営委員会の段階で封じ込めてしまったんです。そのころすでに参院のキャスティングボートは私が握っていましたから。》pp.176-180


(以上、引用文の行あけは引用者による。なお、原文の段下げは引用文に反映させていない。)

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著者略歴
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著者紹介
魚住 昭(うおずみ・あきら〉
1951年熊本県生まれ。75年一橋大学法学部卒業後、共同通信社に入社。96年同社会部チームで連載し、その後出版した『沈黙のファイル─「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)で、日本推理作家協会賞を受賞。96年退社。2004年『野中広務 差別と権力』(講談社)で講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫)、『特捜検察の闇』(文春文庫)、『特捜検察』(岩波新書)、『官僚とメディア』(角川oneテーマ21)などがある。

 

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所蔵
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国立国会図書館 あり(請求記号:GK88-H64)
http://iss.ndl.go.jp/
都立中央図書館 あり(請求記号: / 289.1/ ム2049/ 601 )
https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja
都立多摩図書館 なし

 

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情報元
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「安倍談話」の有識者会議座長代理の変節から浮かぶ「圧力」の歴史――シリーズ【草の根保守の蠢動 第7回】(文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)、2015年04月13日)
http://hbol.jp/33866

《1995年6月6日。

 「50年決議」文案作成作業は大詰めを迎えていた。

 「侵略」の一言をめぐるこの日の緊迫した情勢を、魚住昭『証言 村上正邦』の記述に従って振り返ってみよう(※2)。

  自民党政調会長・加藤紘一や自治大臣・野中広務が中心となり、自民党執行部が進める文案作成作業は、社会党の「侵略戦争である」という見解を受け入れる形で進められていた。

  当然、これまで大規模な反対運動を展開してきた日本青年協議会のメンバーたちは受け入れることができない。最終文案作成期日のこの日、椛島有三と中川八洋を筆頭に50人ほどの「民族派の幹部」が参院自民党幹事長室に詰めかけた。

  村上正邦は、衆院の役員室で加藤紘一が作成する決議案をもって、椛島有三たちが待ち受ける参院幹事長室に持ち帰る。椛島有三らは「これではだめだ」「こんな文案は受け入れられない」と文案をつきかえし、村上正邦はまた、衆院役員室に文案修正を求める…….そんな作業が延々繰り返され、深夜を迎えた。

  村上正邦経由で日本青年協議会の強固な反対意見を受けた加藤紘一は、「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に想いをいたし」という一文をいれ、植民地支配や侵略行為の主体を「世界史全体で繰り広げられた一般論」として曖昧にするという妥協案を口頭で示した。

  この口頭発表案なら行為主体は「日本」と限定されなくなる。これであれば日本青年協議会を納得させられると執行部と内容の合意をし、村上は参院幹事長室に戻って椛島たちを納得させた。

  だが、この取引は加藤紘一と野中広務のコンビが一枚上手であった。

  執行部としては連立を維持するため、なんとしても社会党の見解どおり国会決議で「日本の侵略行為」を言明する必要がある。

  同日深夜、報道各社や各政党向けに発表された「自社さ連立政権最終文案」のペーパーに記述された内容は、先ほどの口頭発表文案と、違う文案だったのだ。

●村上正邦に伝えられた口頭発表文案の内容
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 「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」
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●正式文案として書面発表された内容
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 「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」
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  自民党執行部は、村上正邦に伝えた口頭発表案に、「こうした」の四文字を加えることにより、「植民地支配」「侵略行為」の行為主体にも「我が国」が含まれると明記することに成功する。

  つまり自民党執行部は、口頭発表文案と書面発表文案で違う内容を提示することで、村上正邦と日本青年協議会を欺いたのだ。

  この詐術を知った椛島有三や中川八洋は当然のごとく激怒した。

  公式文案発表の時点でまだ参院幹事長室に残っていた彼らは、「我々をペテンにかけた」と村上正邦のネクタイを掴んで怒鳴り散らしたという。

  メンツを失った村上は、椛島有三たちに、「衆院で可決させるが参院では絶対否決させる」と約束し、どうにかこうにか彼らの怒りを鎮めた。

  このような経緯で、村山内閣時の「戦後50年決議」は、衆院可決/参院否決という国会決議としては異例の結末を迎えたのだった。》

 

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他文献
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備考
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内容
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抄録
「右派勢力」はなぜ台頭したのか。自民党の右派を代表する政治家だった村上正邦とのロングインタビューから、政治の現況を解き明かす。『世界』掲載に加筆・修正し書籍化。

 

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更新履歴
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2015-11-20

 

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